65.交渉から始まる経営戦略

私が会社員時代に、エンジニア職から営業職に鞍替えした当初、成績が伸びず苦しんでおり、なんとかその状況から脱出する為に、様々な本を読み漁り試した中で、幾つかの本は間違いなく私の運命を上向きにするきっかけを提供してくれたのですが、その中でも、




“ハーバード流交渉術”

 

は、最も私の運命に影響を及ぼした本の中の1冊と言って良いものです。本当に数えきれないくらい読み返して、その本は私のメモと付箋で、ボロボロになっていたのを覚えています。当時はインターネットもそれほど普及しておらず、エンジニアが持っている情報をお客様側は持っていないことが多く、比較的お客様はエンジニアの話によく耳を傾けてくれました。状況によっては”先生“のような扱いもあったぐらいです。つまりお客様と意見が衝突する事はあまりなかったわけです。

 

ところが営業になると、数値目標を達成する為に、こちらは“少しでも高いものをより多く売りたい”と言う気持ちがあり、一方お客様側は、“予算内で必要なものをより安く買いたい”と考えていますから、利害が一致していないところからのスタートとなります。これが当時の私にとってはストレスでしたが、同時に比較的気が強い方であった私は、強引に提案を進めがちなところがあり、しばしばお客様とトラブルを起こして、上司や先輩に助けてもらう事は珍しくありませんでした。

 

そのような状況下、「ハーバード流交渉術」が最初に私の目から鱗を落としてくれたのは、(最近は当たり前の言葉になりましたが)Win-Winという概念です。交渉術の研修に参加すると、以下の様な小話が引用されることが多々あります。

 

ある日、姉妹が1つのオレンジをめぐって口論をしていました。2人ともこれは自分のモノだと言って引き下がりません。いつまでたっても口論が収まらない状況を見かねた母親は、2人からオレンジを取り上げ、包丁で2つに切り分け、半分ずつ姉と妹に手渡しました。しかしその後の2人の行動を見ると、
妹は、オレンジの皮をむきごみ箱に捨て、実を美味しそうに食べました。
姉は、オレンジの皮をむきそれを使ってマーマレードを作り始めました。マーマレードに実は必要ないのでこれをゴミ箱にしててしまいました。

 

お気づきですか?そうです。最初からお互いが何が必要なのかを理解し合っていれば、争う必要が無いどころか、姉も妹もまるまる1個分の実と皮を分け合える事ができたのです。まさに、Win-Winの状態ですよね。私はこれを学ぶことにより、交渉とは必ずしも意見を戦わせることではなく、相手が望むものを理解するところからスタートするものなのだ。。。と理解する事ができ、それ以降急激にお客様との会話がスムーズに進むようになりました。

 

交渉術を学んだおかげで、徐々にお客様との交渉の中に楽しさを感じることができるようになっていきましたが、実践の世界においては、先程紹介したオレンジの例のように全く利害が衝突しないようなケースはほとんどないために、どこのラインまでは引き下がる事ができるかと言う線を予め引いておくことも重要であることを学ぶようになりました。営業活動において最も多く発生する交渉は、価格交渉です。しかし、1営業が融通できる価格決定の幅は、皆さんが想像するよりずっと狭いものです。そこで様々な工夫が必要になってくるわけです。

 

例えば以下の様な価格構成の商品があったとします。

 

商品A:標準小売価格:¥100/社内仕切り¥90 (粗利¥10)

 

このような商品の場合、営業が自身の判断で値引きできる価格は¥90までになります。競合が激しく、失注する可能性が高い時は、社内申請をして社内仕切りを下げ、例えば¥80までの値引きの権限を追加で得た上で、お客様に価格の再提示をするといったプロセスを経ることになります。
※実際は、このような値引きのプロセスは会社によって異なります。

 

このような条件下で、営業になったばかりの未熟な時の私のケースでは、¥100で提案した後、お客様から¥89でないと買えないと要求され、社内申請で¥89の承認を得て、同額で再提案しますが、意地悪なお客様から、「他社が¥85で提案してきているんだよ」と言われ・・・
このような活動を繰り返して、社内的にも「いったいいくらなら買っていただけるんだ!」と信用を失い、一方でお客様からも都度承認を取るために「動きが遅い」と言われ、結局失注すると言った最悪のサイクルに陥りがちでした。

 

しかし、交渉術を学ぶ中で様々な工夫の仕方を身に付け、上記のようなケースでお客様から¥89を要求されたとしても、自社製品のメリットを再訴求した上で、「¥95以下に下げる事は難しいです」と一旦プッシュバックすると同時に社内では「競合が激しく¥85でないと失注する」と申請し¥85の承認を得るということを同時に進めるようになりました。そうすることで自分がその場で決定できる価格の幅を¥10に維持しながら交渉する事ができたため、スピード感と競争力をもって商談を進めやすくなりました。

 

この例を通して私が申しあげたい事は、オプションの幅/数の重要性です。この例は交渉の対象は“価格”のみの一次元的な交渉軸ですが、家電店等ではポイント付与しますよとか、顧客側の商品を購入している事業が社内にあれば、今期の買取量増やしますよ等々、使えるオプションが多ければ多次元の交渉が可能になる訳です。

 

ここで一旦交渉の話からは離れますが、皆さんにご紹介したい事例がございます。
皆さん、「業務スーパー」をご存知ですか?その名の通り、飲食店が業務用の食材の仕入れとして利用する事を想定したスーパーでボリュームと安さが特徴となっています。業務用なのに一般の人も変えるというのが特徴なのですが、実は今では来店客の9割が一般の消費者という事です。私も、業務スーパーについては、「こういうユニークな店があるんだなぁ」とは思っていたものの、あまり注目はしませんでした。ところが最近業務スーパーに関する記事を目にして、このグループは年商3,000億にも上る大企業に成長している事と、その取り組みが非常に戦略的であることに驚かされました。

 

この会社は、1981年に兵庫県に「フレッシュ石守」という地域密着型のスーパーとして産声を上げました。その後、小さいながらも3店舗まで拡大したところで、創業者の沼田氏は思ったのです。

 

「このままではダイエーに勝てない」

 

今はイオングループに吸収されていますが、当時はダイエーの全盛期でした。スーパーが生き残るうえで“安さ”は非常に重要な要素。しかし当時のダイエーのバイイングパワーの前では、仕入れ先と交渉しても有利な価格を提示してもらえるはずもありません。そこで沼田氏は仕入先の原価の要素等を様々な面から分析・研究し、一方では中国の経済特区に目をつけ、そこに食品の製造工場を設立し、そこから海外の日本食レストランや小売店に販売するという新しい事業を開始することを決断します。

 

多くの同業他社が、銀行から融資を得て店舗拡大し、創出された利益をまた新しい店舗に再投資するという事を繰り返す中、沼田氏は3店舗まで拡大したところで立ち止まり考え、持続的に成長できる仕組みを考えたわけです。

 

その後、中国での新事業で得たノウハウを応用した、「食の製販一体体制」を目指す過程で、販売店舗が3店舗では工場の稼働率を十分な水準に維持できないという事でFC展開を決意し、現在の業務スーパーの形態にたどり着いたわけです。非常に興味深い事例だと思います。

 

さて、話を“交渉”に戻しますが、当時のダイエーのような強者はボリュームとキャッシュを武器に強気の交渉が可能ですし、その交渉スタイルの方が効率的ですから、そのやり方から抜け出すことはなかなかできませんし、抜け出す必要性も感じないでしょう。なぜなら

 

「ウチは毎年これだけ買うよ。だから○○円に負けてくれよ。いやならほかの業者に声かけるだけだけど」

 

と言うだけで良いのですから。一方、弱者はボリュームもキャッシュも十分ではありませんから、知恵を使うしかありません。そして“安く買うか高く買うか”と言うだけの交渉から、“自分で作る”というオプションを用意する事を考えついたわけです。

 

このブログの前半で触れた、価格交渉のような一次元的な交渉の中にも工夫の余地はありますが、それだけでは圧倒的な強者に勝つことはできません。その為に多次元的な交渉を展開する為に他のオプションを考える。そのオプションを得るために、少ない資本を如何に有効に使うかを考え、中国の経済特区と言う有利な条件がある場所を見つけてそこに投資する。この一連の思考は経営戦略・戦術そのものです。

 

最後に、私が、業務スーパーの取組において最も素晴らしいと感じた点は、3店舗の時点で当時全盛期のダイエーに勝つことを本気で考えていたことです。高い目標をセットする事で、これをクリアするためにあらゆるオプションを検討することが強いられ、結果的にこれまでにない新しい業態や産業を生む、つまりはイノベーションを生むきっかけとなるのです。最近は経済に力強さが無い事もあり、若い人も安定志向に走りがちと聞きますが、そうではなく、その状況を打開する為に知恵を絞ることが、とても楽しく輝かしい未来を創ることにつながることを理解して欲しいですし、私も自分の事業を通してそのことを伝えていきたいと思います。