60.SDGsに気をつけろ!

ビジネス界に身を置く読者の方々は皆、一度は「SDGs」という言葉を耳にしたことがあるかと思います。いや、それどころかSDGsを中心に活動を行っているような方もいらっしゃるかもしれません。その様な方には釈迦に説法となってしまいますが、詳しくご存じない方もいらっしゃるかもしれませんので、SDGsとは何かについて、簡単に説明させて頂きます。以下は、日本SDGs協会HPからの抜粋です。



 

「SDGs」(持続可能な開発目標)は、2015年9月の国連サミットにおいて採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された国際目標です。「地球上の誰一人として取り残さない」ことを理念とし、人類、地球およびそれらの繁栄のために設定された行動計画であり、17のゴールと169のターゲットで構成されています。以下は外務省HPから引用した17のゴールに関する説明です。

どの項目も、世界中の人々が持続的に発展していくためには大事なことであり、この目標に対して正面から反対する人はいないでしょう。

 

しかし、個人的には個々の企業がこの枠組みに沿って企業努力する事をあまりお勧めできません。さらにいうなら、日本という国がこれに力を入れる事さえあまり意味が無いと感じています。SDGsに取組むという事は、そこに人的資源を投入するという事になりますので、これは投資になる訳です。政府も1000憶以上の予算を計上しています。

 

一方でこれは、“国連総会”で採択されたわけですから世界的な目標があり、それに対して各国が取り組み、“世界目標”を実現する事が重要なわけです。そこで私が注目しているのが、この“世界目標”の実現性です。真面目な日本人がこれらのゴールの実現に向かって取り組むこと自身は結構なことですが、“世界目標”に対する日本自身の貢献度についても冷静に分析する必要があると考えています。

 

皆さんもよくご存知の温暖化対策の枠組みである「パリ協定」においては、全世界における排出ガスの30%近くを占める中国は、これまでのCO2排出の責任は先進国にあり、中国のような途上国の責任ではないとして積極的な姿勢は見せていませんし、2番目の排出国である米国は協定から離脱してしまっています。そのような中、いくら日本が頑張っても世界における貢献度は限定的であるだけでなく、そもそも省エネが進んでいた日本なのに「パリ協定」発行日を基準にCO2排出の減少目標が設定されてしまっているために、日本だけとても高いハードルを強いられてしまったが故に、進捗が思わしくなく、結果先日のCOP25では「化石賞」などと言う不名誉な賞を受ける羽目になってしまいました。さらに言えば、過剰な省エネ努力の為に、日本企業が競争力強化に傾けるべき労力が、削がれてしまっていたかもしれない訳です。

 

国のトップが国民に行動を促すとき、また企業のトップが社員に行動を促すとき、個々人の働きの結果もたらされる価値が最大化されることを意識した上で意思決定する責任があると思います。「個々人の活動は徒労に終わるかもしれない」という可能性/危険性を考慮せず、“国連”が採択したSDGsなのだから・・・といって盲目的に取り組むことはトップとしては無責任な意思決定だと思うわけです。

 

私の考えとしては、盲目的に「世界にとって“良さそう”な事」に取組む前に、本当に「世の中に良い事」とは何かを考え、そしてその活動を建設的なものにする為にも価値観を共有できるパートナー(人、企業、国)を選び、互いの成長を目指すべきだと思います。

 

今ここで、「価値観を共有できるパートナー」という表現を使ったのは、いくら懇親的な活動をしたとしても、対象となる相手が、全く価値観を共有できない特性を持っていると、片方だけの努力では実らないこともあるという実例があるからです。それは日清戦争後の台湾統治と、日露戦争後の韓国統治です。当時の日本はまったく近代化されていない2つの地域が、近代化された独立国になるための道筋をつけるために、近代農業のノウハウを提供したり、大学の設立等同様の取組を提供しましたが、結果的に台湾は世界一の親日国となりましたが、一方韓国は世界一の反日国になりました。

 

そもそも、韓国は日本にとっては、中国の脅威に対する重要な緩衝地帯になるので、日本にとっては独立国でいて欲しかったのですよね。これを併合して日本国化する事によってさらなる緩衝地帯が必要になったので満州に侵攻することになった。ここで止めておけばよかったものをさらに深追いして泥沼の日中戦争に突入~第二次世界大戦という最悪のシナリオになってしまった。。。失礼、話がそれましたね。

 

そもそも絶対的に正しいモノというものはかなり限定されてしまい、いわゆる「真理」のようなものに収斂されると思います。それに対して自らの頭を働かせて、それを応用して具体的な行動に移すというプロセスが大切だと私は思うのですが、一方そうではなくSGDsのような、多くの人が反対しにくい枠組みが提示されたときに、これに盲目的に追従することは非常に危険なことだと感じます。

 

そもそも、SDGsとは“国連”が採択したものです。さて、ここで皆さんが持つ“国連”に対する印象とはどのようなものなのでしょうか?世界平和の為に必要な重要な機関/団体というイメージですか?もし、皆さんが“国連”は信用がおける機関だから、その採択を受けているSDGsに取組むことは正しい事だ・・・といった考えがある場合、ここで立ち止まって一緒に考えて頂きたい事があります。先ほど私は「価値観を共有できるパートナー」という言葉を使いました。果たして“国連”は価値観を共有できる機関/団体と言えるのでしょうか?

 

歴史に詳しい方はご存知の事ですが、そもそも国連とは第二次世界大戦の戦勝国が常任理事国としてつよい権限(拒否権)を持っています。さらに原点を辿れば、国連は当時の枢軸国(日本、ドイツ、イタリア)を倒すためにルーズベルト米大統領の呼びかけの下組織されたものです。そして加盟の条件は、枢軸国(日本、ドイツ、イタリア)に対して「宣戦布告」することだったのです。つまり生い立ちからして反日的要素が強いわけです。

 

もちろん、戦後75年の歳月が流れているわけですから、反日的要素をだいぶ薄まっているとは思います。しかしながら、国連はそれ自身に組織的欠陥を持っています。国連総会で議決するときの票は国の大小や分担金によらず、1票/1国です。発展途上国のような国でも同じ1票を保有するという事ですね。実は発展途上国のような国の中には独裁国が少なくなく、そのような国で国連職員として国から指名されるのは、独裁者の息のかかった特権階級の人々です。その様な人々が本当に自国の貧困にあえぐ国民のことを考えているかと言うと、疑問が残ります。

 

また、国連で決議された内容について、実は各国がこれに従う義務はありません。つまり国連は加盟国に対して命令を発する権限を持っていないのです。従って国連は各国が自国にとって都合の良い印象を流布し、お金を誘導しやすくするためのプロパガンダの為の場となっています。隣国のC国やK国は上手に使っていますよね。。。特にC国はアフリカ等の小国の1票を獲得する為にがんがん買収しています。先に述べたような途上国(独裁国家)から来た国連職員はお金に弱いのです。

 

日本の場合は何故か昔から外務省が国連におもねって、日本国民に対しても“国連”は世界平和を作るための素晴らしい機関だという印象を刷り込んできたことと、日本人の真面目な国民性も相まって、採択されたことに対して真面目に取り組もうとします。しかしその真面目な取り組みは、本来SDGsの取組の恩恵を最も受けるかもしれない小国の特権階級の国連職員の向こう側にいる、飢える国民に届くとは思えません。さらに、強制力のない枠組みに対して、これを都合よく利用しようとする国は沢山ありますが、真面目に取り組もうとする国は日本以外はあまりいないと考えたほうが良いでしょう。

 

私は個人的に、人間にとって“尊厳”を維持する事は非常に重要だと思っています。自ら考え努力し、成し遂げた時に、個々人は自身を誇らしく思い、尊厳を維持する事ができるのだと思いますが、一方で他者から与えられる一方では、感謝こそすることはあってもそれによって尊厳が守られることはありません。与えられたものを糧に、自身の工夫を加え、発展を遂げた時に尊厳は維持され、そこで改めて与えてくれた人に対する感謝も増すのだと思います。台湾は日本統治時代に得たものを、自身のノウハウに変え、そこに工夫を加え、その延長線上に自らが目指すものもあったからこそ、発展を遂げ、且つ尊厳を得、日本への感謝の気持ちも持ってくれるようになったのだと思いますが、韓国はおそらく日本が提供した考え方の延長線上に自らが目指すものはなかったのでしょう。得る事ができたものを捨ててでも反日の道を進まないと尊厳が維持できないのだと思います。

 

世界では、これまでのような国境を無視するようなグローバリズムは終焉し、各国は独自の価値観を重んじ、各々の考える方向に発展し、そして世界の国と国はお互いを尊重しながら、一定の距離を保ちつつ、価値観を共有できる相手国とは交流を深めて発展を目指すという形にシフトしていくと思います。なので、国のトップも、企業のトップも自らが追求すべき価値観を明確にし、国民や社員と共有し、彼らの労力を無駄にしないよう賢い選択をする努力が必要だと思います。その結果がSDGsなのであればそれは良いと思いますが、SDGsありきで選択をするという事は適切ではないと思います。

 

国のトップや企業のトップに賢く、理性的な選択をしてもらうために最も重要な事は、国民や社員が賢く、理性的であることです。民主国家においては国のトップは直接的/間接的に選挙で選ばれますし、企業の社員は皆、「職業選択の自由」を持っている訳ですから転職しちゃうことは自由です。なので、国民や社員が賢く、理性的である事によって、トップは緊張感を持ち、適切な判断をできるようになる訳です。逆に言うと、我々は学び続けなくてはいけないという事ですね。

 

最後に、民主国家ではなく、「独裁者によって虐げられている国民は見殺しで良いのか」という点について考えてみたいと思います。これについて私から言える事は、「各国の状況はそんなに単純ではない」という事です。我々が何かできる事はあるとは思いますが、それはSDGsの様な画一的な枠組みではなく、一品一様で考える必要があると思います。例えば2011年頃に中東で広がった「アラブの春」を思い出してください。あの動きの裏には間違いなく、”独裁者をつぶして民主化してしまえば良い”という西側諸国の誰かによる扇動があったはずですが、その結果はどうでしょうか?独裁者が追放され、自由な民主国家が生まれたでしょうか?「これで自由になれる!」と喚起に沸いた国民の多くは、我がままに自分の自由の身を主張し、攻撃的になり、混迷を極めました。国家の枠組みだけを変えても、国民が成熟する過程を経ないと機能しない・・・ということを証明する例だと思います。

 

漠然と「世界平和の為に」というかけ声のもと、国連等で決められた枠組みに従うようなことは止めて、考えましょう。何か目的があって、それに対して取り組む時に、本当にそれで目的は達成されるのか?どのように実現されるのか?これが具体的にイメージされないとき、その目的は間違いなく達成されません。それは政治の世界でも、企業の活動でも、日常の活動においてもです。逆に、その具体的なイメージを追求すれば、何が正しくて、何が不十分なのかは誰でも見極める事ができると思います。

 

Think!!(考えよう!)